日本を代表するサーフエリアの一つ、高知。海と山の豊かな自然に恵まれて、太平洋の黒潮に注ぐリバーマウスでは、世界でも指折りのクオリティを誇る波が生まれる。地元の嶋﨑誠さんは、コアなサーファーとして知られるが、シェイパーそして住職という顔を持つ。サーフィンと仏教には深い関連性があるのではないかという嶋﨑さんに話を聞いた。
嶋﨑誠 / 写真 横山泰介
1976年生まれ、高知県香美市出身。真宗大谷派源通寺住職。大谷大学文学部真宗学科卒業後、本山の嘱託を経て、高知市内の東本願寺土佐別院へ入寺。2023年、実家の源通寺に戻り14代目住職を務める
SURFRIDER FOUNDATION JAPAN (以下SFJ ):まずは、嶋﨑さんが仏教の道に進んだ理由を教えていただけますか。
お寺の住職の子として生まれましたので、気がついたらこの道を歩んでいましたね。本当は継ぐつもりはなかったんですよ。父親も継いでくれとは言わなかったですね。母親は遠回しに言ってきましたけど。祖父の存在は大きかったですね。幼少のころに、いろいろと仏教の話をしてくれて。祖父が亡くっていく姿を見て、自分がここでどうして生まれてきたんだろう、と思うようになりました。せっかくだからと、仏教関係の大学に進学しました。そこは全国のお寺の子どもが集まる大学なので、自然とこの道を進むようになりました。
SFJ:サーフィンを始めたきっかけを教えていただけますか。
小学校から高校までずっと野球をやっていたんですよ。甲子園を目指していて漠然とプロにもあこがれていたんですが、高3の最後の大会は1回戦で敗退してしまいました。サーフィンには興味があったんですよ。近所や高校の近くにサーフショップがあって同級生が通っているのも知っていました。サーフィンの映像を観る機会もあって、「おお、これやってみてえな。だけど、野球で引っ張られているからがんばらないと」と思っていました。で、部活が終わって秋くらいにすぐにショップに駆け込みました。中古の板を買って、同級生と海へ行ったんですが友達は乗れていましたが、僕は全然乗れなかった。物部(川)は家のすぐ近くでしたが、ショップのオーナーに「物部はまだ。まずはビーチで乗れるようになってから、河口に来なさい」と。昔はそうやって、ショップの先輩たちが教えてくれていたんですよね。
実家から最寄りのサーフスポットは物部川の河口。「途中信号が2箇所ありますが、赤信号でない朝一ならクルマで10分もかかりません」
SFJ:それからサーフィンにハマったのですか。
それまで野球ひと筋でしたから、卒業してからは大学進学のために予備校に通いました。浪人中は勉強しながら友達と海に行っていましたが、大学に合格して京都に住みました。サーフィン熱は最高潮に上がっていますから、大学の近くのサーフショップの門を叩いて、バイトをし始めるようになりました。学生時代はサーフィンばっかりしていましたね(笑)。サーファーとのつながりも広くなっていって、徳島の工場やショップにも仕事で顔を出すようになりました。大学でも、最初に知り合った子が宗派は違うんですが、お寺の息子でたまたまサーファーだったんです。彼もと一緒にも伊勢とかによく通っていました。今は奈良の有名なお寺に入って、出世しまくっていますよ(笑)。
自身のサーフボードのレーベル名は「MS-51(エムエスゴジュウイチ)」。「MS」は「モンクシェイプ」(僧侶のシェイプ)、「マコト シマサキ」のダブルネーミング。地元のサーファーの他、宮﨑のホープ高島伊吹もライダー。高校を卒業してフルサポートは終了したが、「乗りたい」とのリクエストが。「僕の板をステップアップにしてほしいですね」
SFJ:卒業されてから京都でお務めされて、高知市内の東本願寺土佐別院へ入寺されました。そして、地元で本格的にサーフボードのシェイプをされるようになったそうですね。
地元出身のロングボーダーのプロで鍋島庵莉(あんり)さんが、野球部の2つ上の先輩でキャプテンだったんですよ。一緒に波乗りする機会があって、「『RIDGE』(リッジ)にきてみたら」と声をかけていただいたんです。現オーナーの藤川雅章氏を紹介してもらって、波がない時は暇を持て余していましたから、何せ実家からクルマで2分くらいの距離ですから、シェイプルームでへばりついて藤川氏のシェイプをずっと見ていて。リペアを教えてもらったりしながら『自分でも削ってみたいな』と自然と思ったんですよね。
SFJ:住職のライフスタイル、サーフィンとのかかわり方は、一般の人たちにとってあまりなじみがありません。
親父が住職の時は。朝夕のお務め、頼まれた法務、事務仕事を手伝っていましたね。それ以外は空いた時間はすぐに工場に行って、シェイプして、波がある時は海に行って、工場に戻って。「今日は午前中お寺、午後から工場」と、そんな感じで上手いことやっていました。ですが、父親が去年他界して、僕が住職になってから、ドタバタしていてボードのオーダーを受けるのは、ちょっと控えるようにしています。
『正信偈』の言葉「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」の掛け軸を前に
SFJ:さて、サーフィンと仏教の関係について教えていただきたいのですが、難しい質問だと思いますが、いかがでしょうか。
僕たちの宗派(浄土真宗)の宗祖である親鸞(しんらん)聖人の書き物に『正信偈(しょうしんげ)』というものがあります。朝夕に読誦する大切な教えななのですが、その中で「海」という字を6カ所も使っているんです。
SFJ:親鸞聖人にとって海は身近な存在だったんですね。
いえ、親鸞聖人は1173年に、今の京都駅の南の辺り伏見区日野で生まれ育っているんです。当時、「南無阿弥陀仏」というお念仏の教えが、都から全国に今の言葉でいうバズって、「出家したい」という人達が増えていきました。権力側にとって危険な信仰とされ、親鸞聖人は捕えられて新潟に流罪になった。その島流しに遭った時に船に乗り、35歳にして初めて海と対峙したと言われています。一説では海がすごく荒れていたみたいなんです。その生きるか死ぬかを船で体験して生き延びたことが、親鸞聖人に大きな影響を与えたのかもしれません。
SFJ:なるほど。初めて知りました。
浄土真宗の教えは、簡単にいうとお念仏を唱えると阿弥陀さんが約束した浄土に救われていきますよ、ということなんです。親鸞聖人は民衆にすごくわかりやすく説明するために、「海」を用いたともいわれています。ここに掛け軸がありますが、『正信偈(しょうしんげ)』からの「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」という言葉です。この「如衆水入海一味」だけで、「浄土というのはこういうところだよ」というのを表しているんですよ。「如衆水入」の「水」というのは川ということ。世の中は、いろんな川があるじゃないですか。短かったり、長かったりとか、広かったり狭かったり。時には大雨が降って怒り狂って、濁流になって一瞬で人を飲み込むこともある。ですが、どんな川でも、最後には混ざり合うと海の一つになる。そんな川を人間の人生にたとえたのです。お浄土は生きとし生けるものすべての命を平等に救いおさめます。つまり「海」は「命が帰っていくところ」ということですね。
秋ごろの台風波、河口で自分がシェイプしたボードでチューブをメイク。さすがのライディングだ。写真:井上泰成
SFJ:わかりやすいたとえですね。
僕らサーファーにとっても、海は「生きている」という命を感じられる場所です。チューブに入っている時とかも、入った人にしかわからない空間と奏でる音があります。波に揉まれたら苦しい時もあるし、本当に「あ、ヤベぇ」とか思う時もある。自分が乗りたいその波に対しては準備をしなければなりません。それでも、やはり乗れないということもある。「如衆水入海一味」も、最終的に自分達が亡くなったら行くのであろうお浄土というのはどういうところかな、ということを知る準備をするべきと。不安なまま行き先もわからないまま亡くなっていくのは嫌ですよね。
SFJ:もし親鸞聖人が今の方だったら、サーフィンをしているかもしれませんね。
そうですね(笑)。海という場所でつながるという意味では、今与えられた自分のこの命というものが、果たしてどこから来てどこに帰っていくのかというところに、サーフィンと仏教はすごく通じるものがあるなと思うようになりました。「母なる海」ともいいますもんね。サーフィンをしていなかったら『正信偈』の「海」という言葉を気にもせずに読んでいたかもしれません。僕にとって、海は「生死観」(しょうじかん)つまり「生と死は裏表」と改めて教えてくれる場所でもあると思っています。サーフィンをやっているのは楽しいですけど、一瞬で命を奪われる時もありますから。
SFJ:とても、いいお話です。
「西方浄土」といように西の方角にお浄土があるといわれています。日が沈むのが西ですから、僕らは太平洋でサーフィンをしているので、夕方レフトのチューブに入れたらまぶしいくらいに黄金色に輝いてすごく綺麗。サーファーにとって、やはりここはお浄土のように特別な場所なんだなと思いますね(笑)。
SFJ:今日はお時間をいただき、ありがとうございました。
創建420年もの古刹、真宗大谷派源通寺の14代目住職、シェイパーそしてサーファーとマルチな顔を持つ嶋﨑さん。今後もマイペースで波乗り人生を歩んでいくことだろう