SURFRIDER FOUNDATION JAPANサイトのインタビューで、ポートレイト撮影を担当している写真家、横山泰介さんが、旧知のプロサーファーでサーフボードビルダーの千葉公平さんを訪ねて、久々に四国徳島へと旅をした。「日本のリバーマウス」と知られ、世界有数の波が立つ海部。40年余年前、この土地に波を見つけ、根を張った千葉さんの歴史を振り返り、懐かしい話に花が咲いた。“レジェンド”と呼ばれるほどに今の日本のサーフィンを導き、長い年月、サーファーとして生きてきたお二人が「サーフィンとは」というところまで語ったとき、本質はすべてのサーファーが共有できるものなのだと心が緩む。「サーファーである以前に人間として」と横山さんが尊敬する千葉さん。その対談は密度の濃い時間となった。自然環境に対してあえて語らない謙虚さは、自然に対する敬意と自嘲の意を表しているのかもしれない。その背中を見て、何かを感じるとることができたら。
千葉公平/写真 横山泰介
1952年、香川県出身。サーフボードビルダー。303サーフボード代表としてサーフボードデザインからシェイプまで関わる。日本のプロ創成期よりプロサーファーとしてコンテストやウインターシーズンのノースショアで活躍したのち、四国徳島に移り住み、本格的にサーフボードを作り始める。303サーフボードのチームライダーには、JPSAグランドチャンピオンになった辻裕次郎、西元ジュリをはじめ、優秀なサーファーたちがいる。またフリーサーファーとしても世界の波を求めて旅をし、未だ見ぬ波をフォトグラファーと共にメディアを通じて紹介してきた、国内外からリスペクトされる日本サーフィン界のレジェンド
横山泰介
1948年、東京生まれ鎌倉育ち。葉山在住。写真家。サーファーやスケーターをはじめ、ミュージシャン、アーティスト、ハリウッドスターまで、幅広い分野で著名人のポートレイトを撮影。風刺漫画家横山泰三を父に、「ふくちゃん」で知られる国民的漫画家の横山隆一を伯父にもつ。鎌倉を代表する芸術一家に育つ。10代後半から始めたサーフィンは人生の一部。日々、“海”と共にある暮らしを送る。写真集『surfers』、『surfers Ⅱ』、『Dedication to two watermen』(すべてBueno!Books)
SURFRIDER FOUNDATION JAPAN(以下SFJ):前回、vol.33のインタビューは、徳島、海部出身のプロサーファー、辻裕次郎さんに登場していただきました。ローカルサーファーが地元の市民とつながり、10年、20年先の自然環境を守るための働きかけを始めているという話でしたが、実際にこの土地では「サーファー」の社会的地位が、彼ら若い世代の努力で少しずつ変わってきているようです。この地域で次世代のサーファーを子供の頃から見守り、導いてきた存在、千葉公平さんと、海部の昔を知る横山泰介さんに、少し過去を振り返ってお話しを伺えればと思います。
横山泰介さん(以下T):久しぶりに、昔(坂口)憲二くんと来て以来かな、生見の海に入って、みんな礼儀正しくってびっくりしたね。地方に行くと向こうのほうから挨拶してくれる。九州の方もそうだけど、ここもそうじゃない。昔はそうじゃないときもあったよね。こうなったのっていつぐらいからなの?
千葉公平さん(以下K):10年か、15年くらい前からですかね。多分、感じはいいと思います。
T:海外では目で挨拶とかすると、向こうも返してくれるじゃない。サーフィンっていうのはそういうのが大切だと思うんだよね。日本全国もこうなっていったらいいなって、ほんと思うんだけどさ。僕のいる湘南には、ないような気がする。
K:全部がそうな訳ではなくて、(外からのサーファーに)クローズのところはいくつかありますけど、それはそれでいいかなと思います。
T:わざわざそこに普通の人が行くわけではないんだから。まぁ、海部はオープンではないだろうけど、生見みたいなビーチブレイクではみんな挨拶するじゃない。そういうのっていいと思うんだよね。
すべては波のおかげ
T:公平はここで何年サーフィンやってるの?
K:はじめて海部でサーフィンしたのは、(雑誌)サーフィンクラシックの創刊号、1978年。40年くらい前かな。
T:なんで四国を選んだの?
K:サーフィンクラシックで抱井(保徳)*1と二人で来たときに、カメラマンは佐藤傳次郎が一緒で、すごい波があって。最初の仁淀の西スウェルから、南のスウェル、東のスウェルまでみんなフォローして。仁淀から海部、田井ノ浜と移動しながら、二週間波がずっと続いたんですよね。それでここが日本のなかで一番良い波があるんじゃないかなって決めたんです。
T:ファクトリーも作った。
K:はじめは自分だけで来て、サーフボード作って外に送り出していました。今のファクトリーのメンバーは、最初に工場を始めたときからのメンバーなんだけれど、彼らも大阪から来たサーファーで。生きていくために自分は板を作っているから、お前らも何かすることを見つけろって言って、彼らははじめ「メイクフィン」って言うブランドでフィンを作り始めた。当時、ノースに行くと 博道(添田)*2とか蛸(操)*3とか、ファクトリー持っている人が来ていて、フィンをオーダーしてくれて。昔、パット・ローソン*4やトコロ*5のまでみんな作っていました。当時はオンフィンの時代。メイドインジャパンのフィンが有名になって、(鴻野)吉次、かっきん(柿原隆)、もう1人いた大塚(直樹)の3人でやってて、十分それで食べていけました。日本中からのオーダーだったから。ハワイメイドのボードが日本に来ると、それにフィンを作ったり、誰かがシェイプに来た時とかも。でもFCSやフューチャーが出て来て、彼らは仕事がなくなって、今度はサーフボードを巻く技術を身につけ始めた。それで、25,6年前に「工場にしましょう」って言ってくれて。
T:先見の明があったんだよね。
K:巻きと樹脂の仕事ができたら、生きていくには十分。ここではみんな多くを望まないんです。一番はサーフィンが出来てればいい。他には何もいらなかったから。
T:リアルサーファーだと思うよ。こんなに波がいいところを選んだっていうことがすごい。この土地から辻裕次郎*6とかレキ(永原)*7とか、若い上手いサーファーがいっぱい出てきている。そういう子たちを最初から目をかけて見ていた。今は普通にそういうことってやってるけど、公平はまだ早い時期だったよね。
K:このあたりでは、そうだったかもしれない。
T:これからはそういう、「育てる」って大切なことじゃない。
K:ここは波が良いから、外から上手いサーファーがいっぱい来たじゃないですか。若手を育てる人たちもみんな、そんなサーファーの真似をすることができた。元オーストラリアのジュニアチャンピオンのアダム・フォンスとかいたから。そういうやつに刺激もらったね。
T:いたもんねぇ。公平がいつも海外行ったりして、上手いサーファーを連れて来てたから。俺覚えてるのは、台風のすごいときに、まともに乗っていたのはアダムと公平だけで、それを水中で撮っていたクリス(•ヴァン・レナップ)もすごかった。それを若い子に見せてあげられたのも大切だった。彼らはまだ子供だったでしょ。
K:多分、その時の写真見てびっくりしたんでしょうね。有名だもんね、あの写真。
T:子供に見せてあげるって必要じゃないですか。ローカルだけの小さな世界を見てるだけじゃ伸びないし、刺激もない。公平はハワイも行ってるし、世界中を見てるから、色んなサーファーに会って「一回、台風の時に(海部に)来いや」とか言うんでしょ? それで海外のサーファーの間で「日本の河口もすごい!」ってことになる。
K:あとは修自(糟谷)*8の存在も大きかった。その時代時代で世界のトップフォトグラファーやサーファーを連れてきて、海部ではたくさんの良い波を当ててきたから。すべては波のおかげなんです。ここに住んだのも波があるからだし。みんながここに工場をもったのも、波があるから。ああいう河口の波に乗りたいからここに住んでいるわけで、あとは何もないですけど。ハハハハ・・・
挨拶は大切
T:とても羨ましい。でもつらいこともあるわけじゃない。それをクリアしながら、今まで何十年も来た、それもすごいと思う。河口の流れの向きとかで、いろんなものがどんどん変わってきたでしょ。それをずっと見てきた。これからの在り方なんてだれもわからないけど、人も増えてくると問題も出てくるし。
K:世界中どこに行っても、行き場所は少なくなってきている。サーフィンする場所は狭くなっているよね。それはサーフィンが素晴らしいから人が増えるのかもしれないけど。やっぱり、海部でも前はいつも全部乗れたけど、最近は3〜5本しか乗らないときもあるしねぇ。
T:でもすごいなーと思ったのは、これだけの波が入るところで、人がワーッと入らないで、ちゃんと順番待って入るじゃない。3人上がったから、3人入ろうとかさ。そういうシステムが出来上がっていることに感心した。
K:そうですね。
T:ただでさえ狭いポイントでワンピーク。それを維持してくだけでも大変だと思う。それでちゃんと入口には「中級者以下は遠慮してください」って書いてある。ああいうことを徹底しているのはさすがだと思うよ。それは自然発生的にできているのかな?
K:あれが書いてあるのは、遭難したときに助けられないから。結構助けたんですよ。流されたり、溺れたり。漁船を出して助けたりもしたことがあります。サーフボードに乗せて、岸まで連れていったり。そういうことが結構あるから。
T:きれいなだけではなく、危険もいっぱいある。勘違いしている人もいるからね。本当にデカい波の日を見たら、わかるよね。端っこのところは強烈なショアブレイクになるし。流れも強い。サーフィン人口が増えて、やっぱりトラブルもつきものだから、ちゃんとルールを守ることだよね。その前にやっぱり挨拶は大切。でもただ挨拶すれば、なんでもOKって訳でもないけど。公平は若い子たちに挨拶しろとか言わないんでしょ。
K:言ったことない。僕ら、少なくともサーフボードを作って生計立てているだけで、そういう人たちがやいのやいの言うことではないと個人的には思ってるんで。
T:このエリアにいたら、見てればわかるってことだよね。それがいちばんスマートだと思うんだよね。強制してはいけない。自分がやっていれば、自然の流れでそうなっていく。
K:わからない人は、いなくなりますよね。海部は泰介さんが言うように、外の人にほめられます。波に入るのもローテーションがあるし、挨拶もできる。
外の世界へ
T:レキや裕次郎のことは、小さい頃、サーフィン始めた頃から知ってるんでしょう?
K:うん、そうですね。工場で仕事していると、コンコンってドア叩いて、「公平さん、サーフィン連れてってください」という世界でした。仕事終わったら学校に迎えに行ってあげたりして、それか工場で集合して、みんなで行って。そんな時がありました。
T:それで千葉にサーフィン修業に行くようにすすめたんだよね。こういういい環境で育った子たちって、自分が好きなように乗れるけど、コンテストは違う。コンテストのルールがあって、ちゃんと波をとるスキルが必要。公平はそれを知っているから、外に出てそういう奴らとやらないと、コンテスト行っても勝てないってわかるわけ。ここに育ったら、ノースショアみたいに、サーフィンが楽しくできればコンテストなんて出なくたっていいや!ってなっちゃう。
K:千葉へは、裕次郎が13、4歳の時から行ったのかな。
T:裕次郎は成績を残して、レキは外を見てるから、外の世界へ飛び出して行った。ただ見守るだけでなく、アドバイスするということも大切。こういうこと言ってなんだけど、ボード作っていたら普通ならサーフショップ開いて、お客さんだけを相手にしていればいい。それじゃないっていうのがやっぱ公平にはある。そういう意味じゃ、公平は人材を育てるということをきちんとしているよね。礼儀が正しいし、芯が通っているから、口でガーガー言わなくったって後輩たちは見てればわかる。一回出て行って、帰ってきた子たちが、自分達の世界をつくってやっているじゃない。
K:彼らやってますね。
T:スマートな部分も引き継いでいるから。それを展開してくのもいい。
K:彼らを連れて毎年ハワイに行っていましたが、その時にたとえば牛越(峰統)*9とか、(田中樹)イズキ*10とかと一緒に合宿みたいにしてたから、みんなと交流があったりして、裕次郎も色んな面でステップアップにもなった。レキもそうだけど。そういう面でも良かったかなと今は思います。
T:うん、確かにそうだよね。
ゴールはない
T:生見で、公平が5‘7の板持って海に行って、すぐに沖からピューンってカットバックして乗ってるの見てたまげちゃった。でもさ、公平の歳であんなに軽く波乗りする人、そんなにいない。
K:そんなことないです。世界は広いです。
T:でも歳だけいうと、もうすぐ70歳。69歳でしょ、すごい!
K:いや、まだ上手くなりたいと思っているんですよ、実は。
T:それも格好いいですよね。
K:まだまだだと。
T:サーフィン、ゴールがないけどさ、その代わり、自分の気持ち次第でどうにでもなるじゃないですか。
K:なりますね。
T:前に来た時、YOGAやってるとか言ってたけど、常々精進しているわけでしょ。口には出して言わないだろうけど。サーフィン見ればわかるよ。きっと陰で努力してるとか。努力とは言わないかもしれない。ちょっとでもサボると、体ってすぐに反応しちゃうから。
K:怠けた分だけきますね。
T:歳とると、特にそうだね。やっぱり大切なのは、自己管理。すごいと思うよ公平みたいに、どんな板でも普通に乗れちゃうのは。大体みんな、長くなって戻れない。
K:楽するとね、何でも言えることだけど、楽に染まるから。
T:俺も思ったの。冬はウエットスーツ着ると、体が重くなっちゃうから浮力のない板は辛いけど。夏ぐらいは短い板乗りたいと思うんだ。いろんなものをずっと見てきて、やっぱりちゃんとやる人はやるんだよね。ちゃんと成果に出るから。サーフィンってすごいスポーツだよ。分からされますよ。
K:うーん
T:まぁ、でも間違ってなかったんだよ、サーフィンやってて。
K:ハハハハハ・・・
サーフィンとは
T:公平はサーフィンする前は、大学までは日本拳法をやっていたんだよね。その話はまたどこかでさせてもらいたいと思うけど。そこからサーフィンで、ここまで行ったのには理由があった。その理由を「波は人間相手じゃないから」ってこの前言っていたけれど。名言だよね。自然相手で良かったっていうこと、何かあるのかな。
K:精神的に助けられます。向かう相手が人じゃないところで。そして自然のある所にいることが、気持ちのいいことでもあるし。自然を見たり、風がわかったり、サーフィンって、そういうところが素晴らしいんじゃないですか。あと色がきれいとか。雨が降り出しそうとか、夕日がきれいとか、朝日がきれいとか。そういうところが素晴らしいと思います。
T:ほんとだよね、敏感になる。自然に対して人間の在り方が、まず謙虚になる。逆に言うと、なんとか上手く環境をキープしたいという気持ちになっていくのもわかる。ただそれを人に強制したくはないから。各々、そう思っていればいい。自分たちで。
K:その通りです。各々の思いが大切です。感じるということはそれぞれに違うわけじゃないですか。やっぱり、まぁ、みんな同じことを言うようだけれど、青い空見たって、みんな個々に色が違うわけで。そういうことじゃないですか。でも、素晴らしさは一緒じゃないですか。
T:すごいいいこと言っていただけました。大切なことはそこにつきる。各々が大切に思っていることを、大切にしていけば、そうなってくるわけです。
K:偉そうなこと言えませんけど、まだまだなんですね。
T:十分に言えると思う。公平がいいこと言ってくれた。「ああだ、こうだ」言うの好きじゃないの知ってるしね、「自分のやってること見なよ」ってやってるのが格好いいじゃないですか。
K:人間ですから、100%ではない。
T:昨日、公平の家を見せてもらって。SURFRIDER FOUNDATIONの中川さんが、「自然に溶け込んでいく家を作るって素晴らしいこと」って言ってたけれど、それって公平の生き方そのものかなと思う。
K:僕らも外から来たよそモノだから、あえてここで環境のことに対して、何かしようということは言わないんです。溶け込みながら、静かに楽しく生きるという生き方。
T:みんながそう思えれば良いことなんだろうね。ここはサーファーが来る前から、港があって漁師さんたちがいたでしょ。
K:今のところ、仲良くやっていますよ。漁師のなかにサーファーもいるし。
T:公平をはじめ、海部のサーファーがジェントルだったから、地元に認めてもらえたんだろうね。港が新しくなるときに、サーファーに配慮された、駐車場が作られた。
K:サーファー人口が増えて、貢献している部分もあるんです。この町のセブンイレブンは、徳島市から高知までの街道で、いちばん売上が高い(笑)と誰かに聞きました。
T:たとえば飲食店やっているお母さんとか、地域の人が「ここは波が立つ町なのよ」と、誇りに思うような土地っていいよね。
K:ここはそうなってきているかもしれない。
K:もうひとつね、サーフィンというのは楽しいことだけど、やっぱり、ちっちゃな喜びなんです。
T:それで今まで来ちゃった。
K:そうです。そうです。
T:いろんな話をこんなふうに語れるし。
K:楽しいし、サーフィンすることによっての喜びがあるから。
T:大切なことだね。
SFJ:サーファーである以前に人として、挨拶ができないことを「残念だ」という泰介さんの言葉もあったのですが。おふたりの話を聞いていて、サーファーというのは、波を分かち合うこと、助け合うことがあって、それぞれの思いで海の環境を守ることにつながっていくということを感じました。千葉さん、横山さん、お話をありがとうございました。
*1抱井保徳 プロサーファー、自らのサーフボードブランドK-SHAPE、シェイパー。1991年より3回のJPSAロングボードグランドチャンピオンに輝く。
*2添田博道 プロサーファーとして、日本のサーフシーンを導いてきた存在。1984年JPSAグランドチャンピオン。一流シェイパーのボードを扱う「ソエダサーフボードジャパン」を設立して40年が経つ。
*3蛸操 プロサーファー、自身のサーフボードブランドSEQUENCE、シェイパー。ビッグウェイバーとして知られる。
*4パット・ローソン 世界屈指の名シェイパー。カリフォルニア出身。1966年よりサーフボードシェイプを始め、70年代初頭にハワイに移る。
*5ウェード・トコロ 世界屈指の名シェイパー。ハワイ、オアフ島出身。1885年よりサーフボードシェイプを始める。
*6辻裕次郎 プロサーファー。2014年JPSAグランドチャンピオン。303サーフボードライダー。
*7 永原レキ 阿波藍プロデューサー。303サーフボードライダー
*8糟谷修自 プロサーファー。自身のサーフボードブランドSKサーフボードをプロデュース。1889年、1990年JPSAグランドチャンピオン
*9牛越峰統 プロサーファー。2003年JPSAグランドチャンピオン
*10田中樹 プロサーファー。2009年JPSA