元プロサーファー 、「テストライダース」のボーカル、映像作家と、さまざまな顔を持つ「トシ」さんこと田中俊人さん。5年もの歳月をかけて制作した、最新作『JAPANESE BREAK』が今週末に上映される。日本はもとよりカリフォルニア、ハワイなどにも取材を重ねた意欲作。トシさんの映像、そして海にかける思いを聞いた。
田中俊人 / 写真 横山泰介
1960年生まれ。神奈川県藤沢市出身。鵠沼で生まれ育った生粋の湘南サーファー。プロロングボーダーの一期生としても活躍。地元のサーフィン仲間と結成した人気ロックバンド「テストライダース」のメインボーカルを務める。映像作家としても活動し、サーフィンを中心としたドキュンタリー作品を手がける
「テストライダース」のボーカルとしても活躍するトシさん。故ムッシュ・カマヤツさんやジャック・ジョッソンともセッションをする湘南屈指の人気ロックバンド
SURFRIDER FOUNDATION JAPAN (以下SFJ ) :トシさんは、元プロサーファー、テストライダースのメインボーカル、映像作家と多彩な活動をしていますが、その軸となっているのは、やはりサーフィンですよね。そもそも始めたきっかけは?
当時の鵠沼辺りって、東京とは違ってあまり遊ぶものがなかった。だから、やはり海に行って遊ぶんだけど、そこでサーフィンというものを見ちゃった。それで、高校生になってスケートボードをやってサーフィンを始めてのめり込んだ。高校へも海へも自転車で行っていたんだけど、家を出て左が学校で右が海。ほとんど、右へ行っていたね(笑)。おふくろはわかっていたと思うけど。それで2年生の時に藤沢市民会館で『フリーライド』を観て、イッちゃった。ハワイには、こんな波があるんだ! それで高校を卒業して、1年間バイトしてハワイに留学をした。
SFJ :『フリーライド』は衝撃的でしたよね。ダン・マーケルの映像とパブロ・クルーズの音楽がアーティスティックでした。で、5年ほどハワイに滞在して、帰国後は留学で学んだコンピュータの知識を生かして、エンジニアとして活躍された。「テストライダース」を結成したのも、そのころだとか。
鵠沼のサーフィン仲間から声をかけられて。おそらく、青ちゃん(サーフィン写真の青木盛安さん)がギターを弾きたかったんだろうね。「お前、ハワイに行っていて英語しゃべれるから、ボーカルな」となって。人前で歌うのなんて絶対嫌だったんだけど、先輩のサーファーからのひと言で決まっちゃった。もう33年前になるね。
SFJ :そんないきさつがあったんですね。今では、すっかり「テストライダース」は湘南を代表する人気のロックバンドの一つですよね。40才で仲間と創業したコンピュータグラフィックスの会社をやめて、映像作家の道へ。何か理由があったのですか?
長年、0と1というデジタルの世界にかかわってきて嫌になっちゃった。映像の世界に入る大きなきかっけは、1994年にマリブでロングボードのワールドカップに出場したんだ。その時は、RUSS-K(ハワイ、マカハを代表するサーファー)が優勝したんだけど、Hi8のカメラを持って撮影して、映像もおもしろいなと。
元ロングボードの世界チャンピオン、ボンガ・パーキンスとは盟友。彼の映像作品も手がけた
SFJ :以来映像作家として活躍されていますが、9月15日最新作『JAPANESE BREAK』が藤沢市民会館で上映されます。どんな映画なのでしょうか?
日本にどうやってサーフィンつまり「波に乗る」ということが入ってきたのかを時代とともに追った、ドキュメンタリー映画。俺達が今楽しんでいる「スタンドアップサーフィン」というサーフボードにフィンが付いてその上に立つ、というサーフィンは後の時代から入ってきた。日本は島国だからずっと日本人は波に乗って遊んでいた。「瀬のし」とか「板子」と言うんだけど。当然波が崩れてスープになってから板で乗るというスープライディングの遊び。 第二次世界大戦で日本が敗戦して、日本はGHQの支配下になった。それで進駐軍がフィンが付いたサーフボードも持ち込んで波に乗るようになった。当時の日本人の若者達がそれに大きな影響を受けた。そういう波乗り文化やルーツを追ったんだ。
SFJ :撮影期間が4、5年かかった大作だそうですね。4部構成に分かれています。
1部の”DownTown Tokyo Surfboard Blues”は、1960年、東京下町が舞台。国産初のサーフボードを作りあげた東京の下町のサーフボードビルダーのパイオニア達のドキュメンタリー。現在の日本のサーフィンインダストリーのルーツがここにあると言っても過言ではない。2部は”Children of Rising Surf”と題して、1960年の鵠沼をフィーチャーした。外国人サーファーが当時の湘南の若者にどのような影響を与えたのか、がテーマ。第3部の”Father of Japanese Surfing”は、「日本サーフィン」の父と言っていい日系三世のカリフォルニアのサーファー、タック・カワハラさんと、彼とともに「マリブサーフボード」を設立した米沢市兵衛さんの話。そして、4部は、ハワイでサーフィンにかかわって来た日系人達の軌跡と功績のストーリー。
SFJ :かなりの大作ですね。ぜひ劇場で観たいですね。ちなみに、そもそも制作しようとしたきっかけは?
9月15日に藤沢市民文化会館で公開される『JAPANESE BREAK』。「『フリーリライド』が上映されたこの場所で、自分もやりたかった」。
さっきも言ったように、高校生のころに、先輩のサーファーや考え方とかやってることがすごく恰好よくて、自分は憧れちゃった。そういう人達が今はもう60代後半 とか70代、下手すれば80代になってきて、この世から去っていく。やはり、こういう 人達を撮らなきゃマズいよな、と思ったのが、きっかけ。ラッキーなことに俺はちょうど年代的にそういう人達に接してこられた。それをどう生かしたらいいかな、と考えたのがきっかけ。
SFJ :なるほど。さて、今の海の環境についてお聞かせ願えますか。ずっと鵠沼でサーフィンをしてきて、何か変化は感じますか?
引地川の河口でサーフィンを始めて、41年経つけど、海は奇麗になった。だけど、今の奇麗さって何か怪しいね。例えば、俺が波乗りを始めたころって、大雨や台風の後は、牛とか木の電信柱とかが流れてきた。今はそういう汚さはないんだけど、なんか川の匂いがケミカルっぽいんだよ。すごく薬品臭い。今年に入って1回、ケミカル臭くて頭が痛くなった時があった。昔は山があって田んぼがあって、土を通して、いい具合に水が流れてきたんだと思うけど、今は全部コンクリート化されてさ、そのまま下水に流れてしまう。除草剤とかや消毒がそのまま流れてくるのかな。
SFJ :それはサーファーの力だけで、改善するのは難しいですね。
そう。だって、内陸、インランドに住んでる人の方が多いんだもん。それは国レベルで考えなきゃいけないと思うんだよ。サーファーは直接的に海の側で暮らしていて、海のありがたみの恩恵を受けて、どれだけ大切なのかっていうのはわかってるけどさ。実際はその何千倍もいる陸で生活してる人達は、あんまりそういうのを感じていないわけでしょ? そこが気になる。自分としては、コンビニで買い物する時に、これを買って本当に海に対してやさしいものか、考えるようにしてる。水とか食糧を買った時に、何でもプラスチック袋に入れちゃうじゃない? それは遠慮するようにしている。
ホームブレイクの湘南の海で。仲間とともにチルアウトタイム
SFJ :『JAPANESE BREAK』の撮影で訪れたハワイで興味深い話を聞いたとか。
海洋生物学にコーラルリーフ・バイオロジーという学問があって、その教授にたまたま会えた。その人は「地球上のすべての生き物はコーラルリーフから始まった」と言うんだ。で、そのコーラルが今地球の温暖化とともにどんどんダメになっていく。それがすごい大変なことを起こすんだ、って。結局地球の7割が海だからコーラルがなくることによって、大変なことになるらしい。魚がいなくなるのはもちろんのこと、酸素の多くは海で作られている。その酸素を吸って生活をしているのは、陸の上の人間だからね。酸素が減少したらどうなるか……。もっと陸の人達が海のことを真剣に考えないと大変なことになると思う。
SFJ :それは知りませんでした。
俺がすごく好きな言葉がある。ダライ・ラマの言葉なんだけどね。
私達はこの小さな惑星を共有しているのですから、人間同士互いに、また自然とも調和し合って平和に暮らせる方法を学ばなければなりません。
それは夢物語ではなく、現実に必要な話なのです。私達は互いに幾重にも依存し合っています。ですから、孤立した社会に生きることはできません。
共同体の外で何が起きているかを無視して生きることはできません。
SFJ :次回作は環境について映画を制作するそうですね。。ぜひSFJも協力させて下さい。
JAPANESE BREAK 公式ウェブサイト https://japanesebreak.com/
取材・構成 : 佐野 崇