もうしばらく前、マロイ兄弟の長兄、クリス・マロイが次のようなことをいっていた。
「世界のいろんな場所へいって、自分のホームウォーターが、これほど素晴らしい場所だと改めて気がついた」
映像作家として「180°SOUTH」や「THE FISHERMAN’S SON」といった社会派モノもつくり出すクリスだが、90年代はプロサーファーとしてコンテストの世界で成功を目指し、後にはトラベルサーファーとして多くの時間を過ごした。被写体として世界の海を駆けめぐり、映像制作に興味を覚えてからも外の世界への関心を忘れなかった。
だが、いつの頃か自分の足元に興味のほこさきを向けるようになる。旅に飽きたこともあるのだろう。年齢を重ねたこともある。結婚をし、父となり、家庭を持ったことで、生活を営むという意味を深く考えたのかもしれない。ピーターパンは、それまでの趣味趣向を完全になくさないまでも、実社会と折り合いをつけたのである。
だから、自宅のまわりが気になった。どのような海があり、街があり、人が住んでいるのかが、気になりはじめた。
旅と生活は違う。
地元ではない他のどこかの海で波に乗り、時間を過ごすのは楽しい。が、旅は一瞬でしかない。旅で過ごした時間と同じように地元の時間が楽しければ、むしろ旅の数は少なくてすむ。
幸運にも、クリスの地元には美しい海と波があり、ビーチを愛して暮らす人たちがいた。そのような場所で日々を暮らせることの幸せに、彼は気づいたのだ。彼が暮らすカリフォルニアには、北のサンフランシスコから南のサンディエゴまで、海とともに暮らす人たちが多くいる。
「海はいい」
そう感じる人が、子供から高齢の人までいて、寿命を迎えてこの世を去った人のなかにもいる。時間をかけて育まれた風土だから、カリフォルニアのビーチは憩いの場になっている。特別な場ではなく、ふだんの生活にある、いつもの場所なのだ。
では、日本はどうだろう。
日本の海岸線はアメリカ本土よりも長い。
サーフィンが上陸して半世紀以上も経過し、いまや3世代がスポーツとして楽しんでいる。たしかに海は身近になってきた。ただ、憩いの場には、なっているだろうか?そもそも、憩える場所は、どれだけあるだろうか?
ビーチカルチャーとは直訳すれば「海岸文化」だ。「海はいい」と思える人たちが増えることで生まれ、育まれる。海に癒され、海と暮らし、そのような人たちが集う場所となることで、街の姿までが変わっていく。カリフォルニアなど海外のビーチカルチャー先進国は、いつだって憧れの場所。でも、そろそろ日本にも、日本ならではのビーチカルチャーを築きたい。
なぜって。やっぱり、地元の海が楽しいことが、一番すてきなことだから。