前編から続く
室原さんに以前にも話をお聞きしたことがある南相馬市役所の方に連絡を取って頂き、伺った。観光交流課の平田良親課長補佐、向後直人主事が対応をして下さり、丁寧に放射能測定結果の資料を提示しながら状況を教えて頂いた。
2度目の訪問の南相馬市役所北庁舎
要約すると、北泉海岸は海水浴場としてはまだオープンしていないが、シーズン前とシーズン中に福島県が水質検査をしており、県のホームページから確認ができる。それに加えて南相馬市は震災直後の2011年11月から毎月1回、北泉海岸の放射能測定を行っている。その測定器は普通は検出不可と表示される1ベクレル以下も測定できる高性能のもので、いずれも身体に影響のない問題ない数値を示していることが蓄積されたデータからもわかる。世界で最も厳しいレベルとされる日本の食品衛生法の飲料水の放射能基準値は1キログラムあたり10ベクレル未満とのことだが、データを見て驚いたことに震災直後でさえもその基準値を下回り、普通の測定器では検出不可(NDと表示)の数値であった。また放射性物質は自然界にもともと存在しているうえ、半減期と呼ばれる物質固有の期間で半減していくので、どんどん減っていくのは確かだ。
お話を伺った南相馬市観光交流課の平田良親課長補佐、向後直人主事
このように放射能に関して心配のないレベルではあるが、爆発後のイメージで福島は危険だと思われているのではないだろうか?。平田さんは言う。「やはり放射能を心配される方がいらっしゃいますので、市としてもこうやって測定を続けてデータを積み重ねています」
除染廃棄物が入れられたフレコンバッグ
たしかに放射性物質がまだ多く残り、帰宅困難な地域とされている場所はある。けれども除染が進み、帰宅困難区域は徐々に解除されてきている。除染による副産物が福島で見かけるあの黒い袋、フレコンバッグだ。あの袋の中に除染廃棄物が入れてあり、現在各地に置いてあるフレコンバッグが中間貯蔵地へと移動し、少しずつ目につかなくなってきてはいる。また、今年の10月から北泉海岸にライブカメラが設置され、毎日のようにサーフィンをしている姿が見える。平田さんは語った。「ライブカメラで普通にサーフィンをしているということを全世界に発信できます。正しい情報をお伝えしていきたいのです。目に見える訳でもなく、放射能のことをみんな知らないから恐いのです。ライブカメラのページに放射線量を出せればいいのですがね。今後工夫して発信していきたいです」
帰宅困難区域の方たちは故郷に帰れない苦しみが続いているが、多くの福島の人が今苦しんでいるのは放射能による風評だと思った。そこで、農政課の森政樹係長、高橋弘副主査をご紹介頂き、福島の農業について聞いてみた。
南相馬市農政課の森政樹係長、高橋弘副主査にもお話を伺った
「南相馬市の主要な農産物はお米で、震災前は5000ヘクタールの作付けが行なわれていましたが、震災後に0となり、現在は2500ヘクタールの作付けまで戻ってきています。国や県の補助金を活用して、南相馬市でも農業の再開を支援しているところです。農産物については、各種類で基準値が設けられており、流通前に高性能の放射能測定器によって検査を行っています。基準値を超えたものがあれば、出荷制限をすることが定められています」
農地の土壌についても放射能の測定を行っており、結果はホームページに公表されているとのこと。震災直後は放射能が高い数値を示していた山側のエリアも大きく下がってきていると言う。「福島の農産物はどこの地域よりも検査をしていますので安心して頂ければと思います」
サーファーは日々海に入っていて、海の安全に関して敏感だ。そのうえで、実際に農業に携わっているサーファーに福島の農業の実情を聞きたいと思った。また漁業については市役所で”試験操業中”と聞いた。漁港の整備等は進められているとのことで、確かに北泉海岸近くの漁港は新しくなっており、船が多く係留されていた。試験操業について、同様に漁業に携わるサーファーに話を聞くことにした。NSA福島支部の支部長を務めるプロサーファーの渡辺広樹さんにご紹介頂き、農業を営む伊藤義隆さん、漁業を営む荒川良洋さんにそれぞれ現在の状況を伺った。
いわき市の海でサーフィンをする伊藤義隆さんは農業を営む
伊藤さんは福島の新白河の駅前でサーフショップを経営しながら、8ヘクタール(およそ東京ドーム3つ分)の水田でお米作りをする。お米作りは大変な作業なので、田植えや稲刈りの時期は海に行けないそうだ。できたお米は全て放射能の測定検査をして、安全を確かめたうえ検査済みのシールを貼る。生産した約1500袋のお米全部を検査してシールを貼る作業は多くの労力を要する。けれども、福島の農産物については、田畑に放射能が検出されていない今でもやらざるをえない状況だ。それはいつまで続くのだろうか?「大変な作業なので検査を徐々に縮小する話も出て来てますが、僕の中では原発が廃炉になるまではこれはやろうと思っています。安全だと言えますから。我慢してでもやります」
しかしながら福島県の農家の方が苦労して作ったお米も「福島県産」ということで、市場でなかなか売れないのも現状のようだ。「福島のお米は飼料になったり、加工米になることが多いのではないでしょうか。福島のお米は福島でしか売れないのが現状ではないですかね」
どんなに検査をして安全という判を押しても、食べる側に福島の農産物に対して放射能のイメージ、風評が取り払われていないと言えるのではないだろうか?
荒川良洋さんは豊間でウニやアワビを採る漁業を営むサーファーだ
荒川さんは福島の豊間地域でウニとアワビを潜って採る組合に所属している。やはり、いわき市、南相馬市などの漁業は原発の事故の影響で本操業できず、試験操業中とのことだ。試験操業はどんなことを行っているのか聞いてみると、モニタリングと言って、月1、2回決められた日に漁をして、水揚げをした魚介類の放射能の測定を行っているそうだ。その後安全が確認された魚介類が売れるかを試みているが、”現状は売れない”と話す。現在の水揚げは震災前の10分の1に満たないが、今までの水揚げつまり本操業をしたとしても同じぐらい売れるかはわからない状況だと言う。「福島の魚はモニタリングをして放射能を測定して出荷するので、国の判子付きです。でも風評でしょうか、水揚げの場所が”福島”ということで売れないのです。これは口に入れる人が決めることであって。風評は覚悟していますが、自分は早く漁を行いたいです。何年もサーフィンしていなと体がなまるのと同じように、潜るのは体力の仕事なので体がなまらないうちに再開したいという気持ちです」
南相馬市役所で話を聞き終えた後、NSA福島支部の支部長の渡辺さんに福島のサーフィンの状況をあらためて話を聞こうと、いわき市まで国道6号線を南下した。福島は縦に長い県でNSA福島支部は震災前は1区、2区と分かれていたが、震災後は一致団結して一つとなった。福島各地で様々な大会が行われ、サーファーが戻って来ている。私も実際に福島の海へ行き、実感していることだ。
6号線を走って行くと福島第一原子力発電所の看板が見えてくる
南相馬市からいわき市までの道のりは福島第一原子力発電所のある場所、帰宅困難区域を通る。以前にも何度か通ったが、このエリアだけはまだ震災当時のまま手付かず残っている。途中第一原子力発電所の看板が見え、道沿いの家や建物が鉄格子で封鎖されているのが見える。この光景がなくなる時がいつか来るのだと思いながら車を走らせた。
帰宅困難区域の建物や道には鉄格子がされて入れないようになっている
懐かしいいわき市の海岸線の風景
いわき市までは途中海が見える場所を通り、懐かしい思い出がいろいろと蘇る。防潮堤が整備され、海岸線は新しくなったが、変わらない海がそこにあった。福島のまた日常が戻って来たことを感じ、夕暮れ間近に渡辺広樹氏の経営するサーフショップに辿り着いた。震災前、震災後と何度か訪れたお店は震災前の活気を取り戻し、お母様もお元気そうでほっとした。
福島支部長であるプロサーファーの渡辺広樹さんのお店で話を伺った
渡辺さんは震災後3年間は福島の海に入らなかった。「支部長として、自分が入ったらみんなが大丈夫と思って入ってしまうと思ったからですね。千葉や茨城に足を運んでサーフィンをしました」
これは、行政が継続して行なっている北泉海岸の海水の放射性物質の2018年10月26日の測定結果
※ SFJの事務局がある辻堂海岸でも、藤沢市が月に一度、空間線量の測定を継続的に行ない、市のウェブサイトで公開しています。福島の海水と神奈川県内の空間線量の数値に異常が見られない限り、SFJではサーフポイントの放射能測定は行いません。
3年が経ち、渡辺さんが入り始めたのは、市役所のデータで海水、砂の放射能の数値が下がって、海に入る状況が整いだしたからと言う。そして7年が経った今は、護岸工事も終わり、住民もサーファーもいわき市にだいぶ戻って来たそうだ。小名浜には大きなショッピングモールもでき、いわき市に移り住む人も多いようだ。「7年ぶりに岩沢ポイントで波乗りして来たのですけど、広野駅も出来て、帰宅困難区域はまだありますが、普通の生活ができるようになりつつあると思いますね」
帰宅困難区域は徐々に解除はされているがまだあるのは事実
帰宅困難区域では放射線量が道路に表示されている
今年は豊間ポイントでもローカルショップの大会が開催され、200人近いサーファーが集結し、盛り上がったそうだ。「あれだけの震災があって、津波や原発の事故をみんなで乗り越えてきた部分があるので、亡くなった人の分まで僕らが引き継いで頑張って生きて、ここでさまざまなことを発信していくことが使命だと思っています。護岸工事も終わって海の状況も整い出したので、毎年継続して大会をやっていけるようにしたいですね。大会を行うことによっていろんな地方の人に福島に来てもらって、実際に見てもらって、僕らとの交流をとおして判断をしてもらいたいし、そのことによって間違った情報が流れないようになると思うのですよ。だからみんなに来てもらいたいです。それが僕らの思いです」
私自身、今回あらためてそう思った。福島に来て見てわかることがある。復興の状況、再び立ち上がった福島県の人たちの生活、悲しみも喜びも来なくては感じられないことがある。
復興作業のトラックが行き交う6号線
6号線を通ると復興している場所と復興していない場所がよくわかる。帰宅困難区域はまだあるけれど、着実に福島は復興へ向けて進んでいる。そう実感できた福島訪問だった。ぜひ皆さんに福島を訪問して頂きたいと思った。それが1番の風評をなくすことに繋がるのではないだろうかと思うからだ。
福島ではNHK福島の夕方18時55分の天気予報の後に県内各地の「放射線量測定値」が流れていると渡辺さんに聞いた。それは住む人たちの安全を守り、安心を与えている。福島に住む人たち、働く人たちが居て、風評に負けずに頑張っていることを忘れないでほしい。
渡辺さんがうれしそうに話してくれた。「大会に来てくれた子供がお母さんと僕のところに来て”今回の大会、最高でした!ビーチも駐車場も広くて!”と言ってくれたんです。いつか福島で全日本選手権を開催することが楽しみです」
福島に多くのサーファーが集う日・・・
その日を目指して福島は風評を乗り越えて1歩1歩進んでいく。
※参考資料として復興庁の「風評の払拭に向けて」をぜひご覧下さい。
http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat1/20170427_huhyou-higai-husshoku_J.pdf
文・写真:米地有理子